第一話 はじまり
会社へ出勤する前に、いつものカフェに立ち寄った。
路地の隙間にひっそりと隠れるようにあるお店で、誰にも見つけてほしく無いかのような佇まいだが、小さな看板が歩道に“遠慮がち”に置いてある。
その店には大きなゴールデンリトリバーがいて、彼の仕事と言えば一日中寝ていることぐらいだ。あまりにも動かないので本当の置物かと思った程だ。
店員は特に愛想がいいわけでもない。が、1人の世界に浸りたい私にはかえってそれぐらいが丁度いい。
時折ここで、残った仕事の片付けもしたりする。
そして私は決まって、カプチーノを頼む。
今日もいつものようにパソコンと手帳を広げ、定位置でカプチーノを飲んでいた。
すると1人の男性が私の前の席に座った。
見慣れない顔だ。
小さいお店だし、いつもこの時間帯にくる常連の顔は記憶しているつもりだが。。
彼は急に私に話しかけてきた。
「あの、いきなりすいません。
ひとつお願いごとがあるのですが?」
私は驚いたように顔を向けた。
戸惑う私をよそに彼は続けた。
「今日私はある女性とこの場所、この席で11時に待ち合わせをしています。しかし、クライアントからの急の呼び出しですぐにここを離れなければなりません。彼女に連絡を取ろうとしても携帯もメールも知らないため連絡がとれないんです。もし彼女が声をかけてきたら私のこの番号に連絡をしてほしいと伝えてもらえませんか?」
「連絡先も知らない女性と待ち合わせ?
それをまた見ず知らずの私がなんで?」
「すいません時間がないんです。
無理を承知でお願いしています。ただ番号を渡すだけで良いので」
「いや、、」
「申し訳ありません。ご迷惑をおかけします。宜しくお願いします。」
断る間も与えず彼はそのまま店を飛び出していった。
テーブルには殴り書きされた番号の紙切れが無造作に置かれていた。
まいった。
面倒なことになった。
意味が分からない。
あっけにとられた。
なんだあの男は。
失礼にも極まり無い。
強引で傲慢な無理矢理なお願いを私が引き受ける義務も無い。
しかし、
あの焦りようはただ事ではないのか。
同じ仕事をする身として分からなくも無い。
「ただ番号を渡すだけしな・・」
幸い今日の出勤は午後からでかまわないから11時までもう少しここで仕事を片付けていくとするか。
今は10時過ぎ。その女性とやらがくるまで1時間程ある。
前の会社を辞めてから続けているBlogを更新して、昨夜の経費をエクセルに打ち込む。
明日ある会議用の資料のデータも今一度確認しておこう。
ふと店内に目をやった。
本を読んでいる学生らしき男性
携帯とひたすらにらめっこしている女性
外を眺めなら笑い合っている若い夫婦
それぞれがこの空間を楽しんでいる。
新しい植物の鉢がレジの横においてあり、
その緑の鮮やかさがこれから訪れる夏の太陽の光を思い出させた。
まるでこのカフェだけが外の忙しいスピードからとりのこされているかのようだった。
会議のデータを丁度確認し終えたとき
「すいません」
と女性の声が私の耳元で聞こえた。
「あ、」
私は言葉を発しようとしたがすぐには出てこなかった。
彼女は20代半ばだろうか、お世辞にもぱっとするような女性ではなかった。
おでこの広さが愛嬌があると言えるが目も一重で口も小さい
鼻筋だけがすっと通っている。
「高木さんですか?」
あの男は高木というのか。
「遅くなりすいません。少しバスが遅れていたもので。
でも連絡先がわからなくて。でも会えて良かった」
意外とかわいらしい笑い方をする女性だ。
「いや、あの、実は私はその、高木という男ではなくて」
「え?」
「なんといえばいいのか、ただ、その高木と言う男にあなたにこの番号を渡してほしいと頼まれたものです」
「高木さんじゃないんですか?」
その女は驚きと悲しみの入り交じったような顔をした。
まるで、大切な人が亡くなったと連絡を受けた恋人のように
「そしたら、あなたは誰なんですか?あなたは彼とどういう関係なんですか?」
「いや関係と言われても・・・」
関係も何も私もただ1時間程前にあったばかりでそれも30秒程の出逢いだ。
「なんか彼は急用が出来てしまったようで、見ず知らずの私にこの番号を君に渡してほしいと言って出て行ってしまった。そうとう急なようだったんだろう。字も殴り書きだし」
おかしなものだ。
なんで私がわざわざその高木という男をかばわなければならないんだ。
「そうですか、、ようやく会えたと思ったのに」
まるで私が高木でなかったことが申し訳ないかのように思えてきた。
「いや、でもここに彼の番号があるから、ここに電話をしてみなよ。今日じゃなくても会うチャンスはあるよ」
「いや今でなくては駄目だったんです。今が私にとってのタイムリミットだったんです」
そんなことを言われても私にどうしろというんだ。
「大丈夫です。もう行かないと。ありがとうございました」
「いやいや、番号を持っていきなよ」
「もう良いんです。変な期待を持つだけですので。
しかもその番号には何の意味も無いし」
まったく意味がわからない。
そんなに大切なことならば何故高木という男はそう簡単にクライアントの用のためにこの約束をはずしたんだ。
彼女はほのかな香水の残り香を残してまるでたんぽぽの種のようにふっと消えるように出て行った。
不思議な朝だった。
会社に戻ってからは特段変らない普段通りの日常が待っていた。
クライアントからの理不尽なクレーム、まだバイト気分が抜けない新人のおもり。
同僚ののろけ話。
いつもと同じ日常だ。
しかし
帰宅の徒に着いた時、妙な違和感を感じた。
まるで誰かに見られているようなそれも1人ではなく、複数に。
ただの気のせいだろうと思い、家の近くのコンビニで弁当を買ってから帰宅した。
おかしい・・・
ぱっと見はいつもと変らないが、住んでいるものならわかる特有の違和感を感じた。
疲れてるんだ。
そう言い聞かせて、スーツを脱ぎ、シャワーを浴びた。
物音がした。
「誰かいる・・」
気のせいではないことは確かだ。
大きな物音と同時に、部屋の電気とバスルームの明かりが消えた。
<続く。。。>